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    徹底的に叱らない。

  • 2010.06.25
  • 唐突ですが、子供をとにかく叱らないそうです。
    良いか悪いかはともかくとして『「叱らない」しつけ 子どもがグングン成長する親になる本』というものも発行されているくらい。
    で、amazonで、この本のレビューを見てみると、30件のレビューがついていて、平均点が4.5点。同じ著者の本には『「否定しない」子育て 親の「話す技術」「聞く技術」21』なんてものもあって、これはレビューが1件ながら満点の星5つ。

    いずれにしても本の内容がわからない以上、それこそあれこれ“否定”するわけにはいかないのですが、『「叱らない」しつけ』について書かれたレビューを見てみるだけでも、どうにも腑に落ちない。もちろん、人それぞれに考え方や方法があるわけですから、僕の考え方が正しいとも間違っているとも言えず、こればっかりはどうにも……なのですが、まぁ、ちょっと……モゴモゴモゴといったところ。

    で、本は読んでいないのでなんともかんともわからないので一切関係ない立場ということで書いていきますが、「叱らない」というのはどうやら昨今の流行のようであります。「叱らない」というか「否定しない」というか。

    これは、例えば「○○してはいけない」と言う否定型で「叱る・しつける」のではなく、「□□しようね」と肯定型で伝えようというのが、ものすごくざっくりとした表し方なのですが、極端な例を挙げれば、高い(危険な)場所で遊んでいる子供に対して、「そんなところで遊んじゃダメ」と言うのではなく、「こっち(平らな、安全な場所)で遊ぼうね」と伝えましょう、という感じ。で、これが極端すぎる事例かといえば、これがあながち遠からずなのでわざわざこうして書いているわけです。

    で、本当にこの肯定型だけでいけるのか検証です。

    言葉には裏表があるので、言葉の使い方を変えることによって、非定型を肯定型に変更することはある程度は可能だと思います。また、上に書いた例のように、場所や目的を変更することで否定しない言い方に変えるということも可能ではあると思います。

    で、例え話。
    僕は小さいころから釣りが好きで、今でも趣味として続けているのですが、この「釣り」を子供に教えようと思ったら、肯定型だけではとてもとても、と思ってしまいます。
    釣りでは、先が鋭く尖った針を使うし、糸を切るのにはハサミを使うし、仕掛けによっては重たい錘も使うし、それらを長い竿にくっつけてブンブンと振り回す自体も予想されます。また、釣れる魚にしても、鋭いトゲを持ったもの、毒を持ったもの、あるいは捕獲することや持ち帰ること、リリースすることが禁止されている魚もいます。海や川、湖といった釣り場は、水辺に近づきすぎたり、天候を見誤ったりといった、安易な行動は死に直結しますし、同じ釣り場での対人関係などもとても重要な要素のひとつとなります。そういったすべての事柄を伝えるのに、「□□しようね」なんて(ある意味)生易しい言葉で対処できるのかでしょうか。
    ・針はこう持とうね
    ・ハサミはこう使おうね
    ・竿は気をつけて振ろうね
    ・すぐに魚には触らないようにしようね(“ない”が入ってしまいました。残念)
    ・このお魚は逃がそうね
    ・こっちで釣ろうね
    ・あっちに投げようね
    うーん……。これらすべての言葉に対して「どうして?」と問いが返されたらどうしましょうか。「危ないからだよ」と返しましょうか。だとしたら最初に、「危ないから、ハサミはこう使おうね」と言いましょうか。
    なんとかできそうな感じはします。

    でも、それでも僕は事前に「絶対してはならない、絶対守らなければならない禁止事項」をひとつずつ時間をかけてきちんと説明し、それらが守られなかった場合には厳格な対応を取る必要があると感じています。それは漠然とした教え方では危険を防御できないからです。

    こういう考え方には、「最初からダメなことばかりを教えてしまうと、せっかく興味を持っても、おもしろいと思わなくなってしまう」という意見によって抵抗を受けるでしょう。
    でも違います。こと釣りに関してのみのことを言えば、どんなに禁止事項でがんじがらめにされたとしても、魚がかかった瞬間の、釣り上げたときの、あの興奮を体験すれば、そして、これを体験するためにたくさんの守らなければならないことがあるのだと考えられれば、そんなのを守ることぐらいなんともないことになるはずです。
    子供に「楽しみ」を与えてあげられない、大切なものを教えてあげられない親が、子供の様子にビクビクおびえながら子育てをしているから、「せっかく子供が興味を持ったのに」と考えてしまうのではないでしょうか。

    例えばご飯。「また今日もハンバーガーを食べさせてるの?煮物も食べさせなさい」と無理矢理食べさせようとするお姑さんに対して「せっかくこれなら食べると言ってるんだから」。
    例えばゲーム。「こんな時間までゲームさせてるのか?」と帰宅したパパに言われて、「せっかく興味を持って夢中でやってるんだから」。
    まぁ、こういう例は少ないにしても、「子供の興味」や「やる気」だけで物事を判断するから、うまく叱ることができないんじゃないかと、僕はそう感じます。
    スポーツ選手だってそう。すべての成功しているプレーヤーが、はじめからうまく、褒められることだけでその地位を得たわけではないでしょう。それでもホームランを打つことの楽しさや、相手を打ち負かしたとき、昨日より早く走れたとき、そういったさまざまな楽しさを教え、与えてあげることで、単なる「興味」や「やる気」より強い継続力が出てくるのではないでしょうか。


    少し脱線しましたが、もちろん日常生活においては、なにをしでかすかは事前に想像つかないわけですから、あらかじめ危険を想定して禁止事項を伝えきることは難しいかもしれません。それによって、事前の注意なく、事後にいきなり叱りつけることだってあるのかもしれません。その場合にも「~~しようね」で対応するのでしょうか。
    いきなり叱りつける、もちろんそれはけして褒めらることではないのかもしれませんが、それでもその「叱る」のか「叱らない」のかの判断は、その行動に対する危険度、反社会度を親が判定して決めるしかないのではないでしょうか。
    子供は「してはダメなこと、守らなければいけないこと」を知りません。「愛情を持って接することで子供は自然と親が嫌がることはしなくなる」という考え方もあるように聞きますが、この「愛情」という言葉が実はくせ者。子供の行動すべてを「親の愛情」という漠然としたものの深度で図られたのでは、たまったもんじゃありません。
    「ウチの子が言うこと聞かないんです」→「愛情が足りませんね」
    「ウチの子が偏食するんです」→「愛情が足りませんね」
    「ウチの子がよその子をいじめてるみたいなんです」→「愛情が足りませんね」
    「成績がよくならないんです」→「愛情が……」
    これではなにか問題に突き当たる度に「自分の愛情が足りなかったのでは」と、ノイローゼになってしまうでしょう。

    “愛情”などという漠然としたものに支配される前に、しっかりと考えなければいけないのは、とにかく「叱らなければ」いいわけでも、「叱れば」いいわけでもないはずだということ。いいことをしたり、なにかを達成できたのであれば、ごく自然に褒め、悪いことをしたり、決まりを守らなかったら、ごく自然に叱る──、こんな単純なことがどうしてできないのか、そこが一番の問題なのです。いろんな知識を詰め込みすぎて、いろんな情報に頼りすぎて、本当に大切なことが見えなくなっているのではないでしょうか。


    さて、ここで今まで書いたことを全部白紙に戻して、百歩譲って、子供が2歳や3歳、5歳や10歳であるのなら、「叱らない」「否定しない」でもまだいいでしょう。
    問題は、この「叱らない」「否定しない」が、中学生や高校生に対しても行われているようだということです。

    例えば×をつけない採点というのがあるそうです。
    間違いを指摘して単に×としてしまうのではなく、「もっとこうしたらもっと良くなったのにね!」みたいな助言をする採点の仕方で、どんな間違いであっても、それは間違いではなく、限りなく△に近くなるという、学生にとっては夢のような採点の仕方です。
    もちろん助言があれば、確かにわかりやすいです。「そうか、もっとこうすればよかったのか、ふむふむ──」と学生は感じるでしょう。復習として学びやすいし、理解力も深まりそうです。
    こういう×をつけない、悪いところを指摘しない、否定しない方法の根本にあるのは釣りのところであげたものと同様に「注意してしまうことで子供のやる気をそいでしまう」という考え方のようです。どんなに嫌でも勉強はやらなければいけないわけですから、せめてやる気だけでもなくさないように、というところから来ているのかもしれませんが(あるいは単にやめられたら営業的に問題が生じるのかもしれませんが)、果たしてそうでしょうか。「できないこと」「苦手なこと」「ダメなところ」をきっちりと教えてあげる、そのうえでそこが克服できたとしたら、それは喜びにはならないでしょうか。そしてなにより、できないことを指摘することでしか「なにをしなければならないのか」は伝えられないと思うのですが……。

    僕はこういう教育の仕方は、なんというか、子供の手を引っ張っているだけのように感じます。子供自体はあるポイントに立っていて、足はそこから動いていないのに、手だけを引っ張ってその先にあるものに触らせてあげているような、そんな感覚です。子供はその先にあるものを少し触ることによって、自分がそこに到達したように感じるでしょうが、肝心の本体は残ったまま。手が伸ばされれば伸ばされるほど広い範囲に手が届き、多くのものに触れることはできるようになるでしょうが、結局は触っただけで、それを自分のものとしているわけではない、そんな感じです。
    「頭でっかち」──。そんな言葉が浮かびます。身についていない、体験を通していない、単なる知識──。現代の子供に応用力がないと言われるのはそういうことが原因なのかもしれません。


    楽しく子育て──。
    これもよく聞かれる話です。
    僕はまだ子育てをはじめたばかりで、まして、我が子はまだ親の存在すら理解できないような状態ですから、子育てについて語る資格を得ていないのかもしれませんが、子育てはけして楽しいものではなく、とても辛く厳しいものだと考えています。
    子供に“愛情を持って”接し、子供の人格を“尊重”し、子供の“理解者”になる──。一見、すごく正しいことのように見えますが、それはもはや教育ではなくて、友情や恋愛です。

    それはもはや「楽しい」子育てではなく「楽な」子育てではないでしょうか。

    テーマ : 日記というか、雑記というか…
    ジャンル : 日記





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    常盤荘太郎

    Author:常盤荘太郎
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